数理生物学と計量


数学セミナー 1993年10月号 vol. 32 No.10 = 385,特集 数理化と計量化,瀬野裕美「数理生物学と計量」,pp. 40-43,日本評論社,より抜粋,一部改変。


 ひとに研究分野を尋ねられたとき、どういう風に答えようかとちょっと考えることがしばしばある。「数理生物学(Mathematical Biology)」と答えるのがもっとも適切だとはわかっていても、「数理生物学」と答えてしまってから相手が適切に理解してくれたかどうか不安な場合が 多いからである。実際、色々と話をしてゆくにつれて相手の理解がずいぶんずれたところにあることがわかって、なんとかうまく理解してもらおうと、相手に気 を使いながら自分の研究分野についての説明の付け加えをする、などということもしばしばある。だから、最近は、「数理生物学で.....ということをやっ ています。」なんて風に説明っぽいことを付け加えたりする。それでも、誤解がたびたびある。相手が生物学者だったり、数学者だったりするときは、特に答え 方が難しい。生物学者には、「生物現象の生物学的研究からの知見をもとに構成された数理モデルを数学の手法やコンピュータによる数値計算を利用して解析し ています。」,数学者には、「生物現象が元になった数理モデルをいろいろと解析して、生物学的な議論をやろうとしています。」なんて具合に説明したりす る。しっかりと話を聞いてくれても、ある生物学者は、「数理生物学」の研究は、生物学とは関わりのない、生物学の言葉を借りた数学の研究だと解し、一方 で、ある数学者は、厳密な数学的証明もなしに数理モデルを解析し、数学的に未確定なその結果を用いる研究は生物学だから許されるのだ、といってそっぽを向 く。まあ、「数理生物学」という分野はそんな分野だといってもまんざら間違いでもなさそうだが、もう少しのうがきをたれながら、「数理生物学」というも の、生物現象を研究する上での数理(モデル)というものについて述べてみることにしよう。

 数理生物学という学問分野は、いわゆる、学際分野である。だから、生物現象をその研究の対象としていながらも、生物学の一分野だといいきれないと しても致し方ないとも思える。あえて述べるならば、それは、数学や物理学,化学と生物学の狭間から生まれた複合分野である。[→そんな分野があっても、何 も特別なことではない。たしかに、現代の自然科学の分野はおそろしく細分化されてしまったが、いにしえの「科学(Science)」は、ニュートンやレオ ナルド=ダ=ビンチがそうだったように、自然現象全般を「科学」という大きな枠組みの中で自由に探求するものだったのだから。たとえば、ニュートンを物理 学者という狭い枠組みに入れてしまうことには一般にだれしもが抵抗をもつだろう...]数理生物学では、考察の対象となる生物現象を、確率過程,微分方程 式,差分方程式,オートマトン,ゲーム,最適制御などの理論をもとにした数理モデルによって記述し、そのモデルの理論的解析、あるいはコンピュータによる 数値計算による解析を通じて、現象に潜む「科学的な論点」を明確にしようとする。もちろん、それらの数理モデルはいずれも従来得られている生物学的知見お よび生物学的仮定に基づいて構築されるべきものである。ところが、そのように構成された数理モデルの解析によって得られた結論が生物学による研究成果に よって否定されることがある。そのような場合でも、その数理モデル解析が、即、闇に葬られるわけではない。数理モデルが既存の生物学的知見,生物学的仮定 に基づいて構築された以上、結論が現象と矛盾する、ということは、数理モデルの前提であった生物学的知見,生物学的仮定において何らかの問題があるか、モ デルの構成過程(モデリング)に問題があるか、のいずれかである。前者の場合、生物学的論点を提示していることになるので、その論点に関わる議論におい て、その数理モデルの解析結果は、考察時の有用な対照として意義を持つのである。

図1.

 「専門分野は数理生物学です。」と答えると、生物統計学の研究者だと誤解されることもままある。この生物統計学は、生物学的研究からの実用的要求 に応じながら発展してきた分野で、生物現象の計量化のためのデータ処理に関する手法を確立し、生物現象に対していかなる測定を行うべきかという科学的研究 方針を与えてくれる学問ではあるが、統計的に処理したデータをもとにした現象の議論を目的とする学問ではない。そうした生物統計学に対し、数理生物学は、 処理されたデータも含む生物学的知見を元にして構成した数理モデルの解析によって生物学的な論点を提出したり、知見の体系化の手掛かりを得ることを目的と している。この意味では、数理生物学は数理モデルという研究材料による理論生物学の一分野であるともいえる。つまり、生物統計学は生物現象の「計量」の手 法を理論的に扱う学問であり、数理生物学は生物現象を「数理」の上にのせ、現象の本質を理論的に考察しようとする学問である。  数理生物学において研究されてきた様々な数理モデルは、生物学以外の分野、特に、数学,物理学の分野にとっても興味深い問題を提供してきた。実際、現 在、数理生物学に関わる研究を行っている研究者は、生物学のみならず数学、物理学などの様々な研究室で活躍している。[→「数理生物学」専門のポストとい うものが皆無に近いほどほとんどないという現実も反映している。大学の数理生物学者は、数理生物学以外の数学や物理学,コンピュータなどの分野の教育を行 うポストに採用されていたりする。学際分野ならではの運命かも知れない...]そして、数理生物学に関わる数理モデルを対象とした研究には、数学としての 一般論的研究もあれば、特定の生物現象のみを取り上げた生物学的研究まであり、実に多様である。数学や物理学としての一般論的研究は、特定の生物現象に対 する数理モデルを解析する際に実用的に応用されうるものなので、現在の数理生物学は、そうした多様な数理研究が体系的に結びついた、境界の曖昧な分野とい える。ただし、数理モデル研究のすべてが「数理生物学」の研究であるとは考えがたい。生物現象に関する数理モデルの解析であっても、生物現象の考察のため の生物学的議論を目的としない、数学や物理学としての一般論的研究は、数理生物学研究にとって価値ある研究でもあるが、一般には、数理生物学の研究とは考 えられないし、そのような研究を専門として行っている研究者は数理生物学者と呼ぶよりも、やはり、数学者や物理学者と呼ぶほうが妥当であろう。だから、狭 い意味では、研究の目的があくまでも生物現象を考察することであってはじめて明確に数理生物学の研究といえるのである。[この意味では、学際分野であるが ゆえに、同じ研究者の研究が、数理生物学に属したり、属さなかったりする]

図2.

 複雑な開放系としての自然界では、様々な生物学的要因が絡み合った結果として生物種の共存や絶滅が観測されるので、どの要因がどのようにどのくら い共存や絶滅と関わっているか、というダイナミクスの構造はそのままではわからない。だから、生物学は、そのダイナミクスを種々の観測データから解明して ゆこうとする。どのような生物学的問題を考察するかに応じて、生物現象のどのようなデータを観測するか、を決め、集積されたデータに対して生物統計学 (Biostatistics)の理論が活用され、データ解析の結果を体系化し、観測された生物現象の構造を徐々に明らかにしてゆこうとするのである。現 象のもつ多彩な様相からいかにして意味のある生物学的統計量を引き出すべきか、それは、ひいては、観測においていかなるデータを取るべきかということにな る。だから、観測に基づく多くの生物学研究においては、そうした生物統計学が保証する統計量をもとにして対象現象に関する議論を進め、他の現象との比較を も行うことができるのである。生物現象の様々な構成要素(個体数,密度,年齢,色,強度,形,分布などなど...)を計量化し、統計的に処理することに よって構成要素のなす現象のダイナミクスを体系的に考察することが可能になるのである。

 現象の計量化によって現象を支配しているダイナミクスの性質を明らかにしてゆく、という研究は、特定の生物現象の特定の側面を観測して考察するが 故に、時に、現象特異的、つまり、その現象に限って示すことのできるような生物学的結論に至ることがある。もちろん、そうした結論であっても対照として他 の研究にとって有用である場合もある。しかし、現象特異的な研究は、一般に、特定の物理条件や生物学的条件に限られた観測に基づくために、そうした条件の 変化がどのように観測している現象を変化させうるのか、という問に対して答えを用意できるものではない。それは、その現象の現状での生物学的ダイナミクス の姿を研究しているのであって、その生物学的ダイナミクスの持つ様々な可能性をも含めた「構造」を研究しているのではないといえる。また、現象特異的であ るが故に、得られている結論の正当性がいかほどのものかを議論するための論点を欠く場合もある。数理モデル研究は理論的な思考実験の側面を持つ、と前に述 べた。また、生物学的知見や仮定に基づいて構成されるべきものだとも述べた。だから、ある特定の現象の研究から得られた知見をもとに構成された数理モデル を研究することによって、環境条件の変化に対してどのくらい不変的に同じ結論が観測できるのか、どのように違った様相を現象がみせるのか、という議論の論 点を提供することができるのであり、他の現象のダイナミクスとの体系化も促すことができるのである。

 このように、生物に関わる現象を研究する際、その現象をどのようにとらえ、どのように科学的な考察に導くか、というルート、つまり、いわゆる「研 究の方針」において「数理化」と「計量化」が現われる。この二者は密接に関わりあい、どちらでもよいというものではないことは明らかである。特に、生物学 的知見が未だ十分でない現象に関する数理モデルを構成しようとする場合、既得の知見と生物学的な仮説から数理モデルを考察するわけであるが、モデルに組み 込まれた仮説はのちに現象の観測によって検証考察されるべきであるから、生物学的な検証考察が不可能であるような仮説をもとにした数理モデルは、生物学の 理論の体系化には寄与できるが、実験や観測とは直接結びつくものではない。生物学的な検証考察が可能であれば、その数理モデル解析の結果は、対象とする生 物現象に関する仮説の是非という論点を提出し、現象観測のひとつの方針を示すことができる。そのように、現象の観測の方針を探るために構成され、解析され る数理モデルも少なくない。そして、前記の仮説をもとにしたモデルの検証考察の際には、新しく得られた観測データを数理モデルにあてはめることによって現 実の生物現象から得られている知見との対比を行い、仮説の是非や修正を行ってゆく、という研究方針もしばしばとられる。このようにして、現実の生物現象の 観測と数理生物学の数理モデルとの間で「計量」を介した相互作用を繰り返しながら現象の探求が進んでいるのである。

図3.

図4.


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